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敦煌

2009年6月23日 火曜日

そんなにたくさんの本を読むのはなぜかと聞かれて、何度も読みかえしたくなる一冊を見つけるためだと答えた人がいた。あなたにとって何度も読み返したくなる本とは何だと聞かれても、私は答えにつまるだろう。そんな本に出会えたら幸せだろう。

ついこの間、本棚に井上靖の「敦煌」を見つけて、思わず読み返してしまった。この小説を初めて読んだのはそんなに昔のことではない。その時も、なぜだか急に読みたくなって本屋で買ってきたのだと記憶している。ところで私が小学生のころ、「敦煌」という同名の映画が公開されていた。その後テレビで放映されたものを私は見たのだけれど、それだってもうかなり昔のことだ。それなのに断片的な記憶はまだしっかりと残っていて、映画のいろいろな場面を小説を読みながら思い出した。

ともかく私はこういう小説が好きになってしまったようだ。この本では趙行徳という人間が色々な人間に出会い敦煌へと導かれていく。そんな趙行徳の生き方にあこがれながらも、運命とはそもそも何なのかというようなことを考えてしまう一冊だった。

小説の読み方

2009年6月7日 日曜日

気運が来るまで気長く待ちつつ準備する者が智者。気運が来るや、それをつかんでひと息に駆けあがる者が英雄。―それが庄九郎の信念であった。そして庄九郎こそ、智者であり英雄だった。

「国盗り物語」第二巻の裏表紙に書かれている文章がこれだ。この部分が訳もなく気に入っていて、何かにつけ思い出すことが多い。

司馬遼太郎の作品の中で、私がもっとも好きなものがこの国盗り物語である。国盗り物語は全てで四巻である。このうち前半の二巻までが特におもしろい。司馬遼太郎も元はと言えば、松波庄九郎が美濃国を盗る前半二巻までで完とするつもりであったらしい。しかし、週刊誌での連載が好評であったため、その続編として織田信長と明智光秀の二人を主人公とした後半二巻分を作ったのだと聞いたことがある。

ところで小説とはいったいどう読むものなのだろうか。主人公になった気分で読むものだろうか。それとも第三者として読むものだろうか。そういう自分自身はどう読んでいただろうかと考えてみた。たいていは、主人公になりきって読んでいる様な気がする。そういえば、国盗り物語は前半で斎藤道三が死んでしまう。こうなると後半は誰になって読めばいいのだろう。草葉の陰からそっと見守る態度で読めばいいのか。