2010年8月 のアーカイブ

You don’t have to say you love me

2010年8月30日 月曜日

「この胸のときめきを」という邦題のつけられているこの曲も私のお気に入りの一つ。この曲でなによりカッコいいのがこの歌い出しだ。エルヴィスの曲はみんな歌い出しのいいものが多い。そんな中でも特にこの曲は格別だ。「When I said」で一呼吸おいて「I needed you」となるところが何度聞いてもいい。そう思っているのは私だけではないみたい。

このイントロなしでいきなり「When I said」と歌い始める「この胸のときめきを」は、 その映画「エルヴィス・オン・ステージ」が大ヒットして、よくラジオでかかっていたのを聴いて買ったと思います。カッコイイー!!と思って買いました。
この胸のときめきを/エルヴィス・プレスリー | フカヤドットネット

イントロなしで、いきなり 「When I said I needed you」 と歌い出す「この胸のときめきを」には、幼いながらに何か痺れるものを感じていました。
私はただ単に、この曲の始まりが好きだったんです。
You Don’t Have To Say You Love Me | マイケル・ジャクソンに想う

「ELVIS 2ND TO NONE」のライナーノーツによればこの曲は「It’s now or never」「Surrender」などに続くカンツォーネ・カバーということらしい。このシリーズはみんないい曲ばかりだ。ちなみに「You don’t have to say you love me 」という英語版を歌って最初にヒットさせたのはダスティ・スプリングフィールドで、こちらもいろんなコンピレーションアルバムに登場しているので聞いたことのある人は多いはず。私はエルヴィスバージョンのほうが好きですが、みなさんはどうですか。

CanCam!?

2010年8月28日 土曜日

おいおい。CanCamってなんだよ。キャンキャンっていうからCanCanだとずっと思ってきたのに、CanCamって。これじゃ、キャンキャムだよ。あわてて姉キャンを調べたらAneCanなんだってさ。Canを取るかCamを取るか、難しい問題だよねって気になったのに、説明もなくAneCanと言われて納得できるはずもない。

このCanやCamって何かを省略したものなのだろうか。絶対にそうあって欲しい。意味もなく語呂だけでCanCamって名付けたのだったらかなりのものだ。Can=(助動詞)できる、Cam=Camera、と瞬間でも感じてしまった私はどうかしている。それでも何の意味もなくいきなり「キャンキャン」をひねり出したというのではどうにも納得できない。なにか理由をつけて欲しい。

そういう意味でJJなんてもってのほかだ。JJという言葉を暗誦するたびに頭の片隅にフッと浮かんでくる川平慈英兄弟を消すにはJとJに何か意味付けが欲しいのだ。JapanJapanでもJoshiJoshiでもJaraJaraでもいい。どんなにくだらなくてもいいから。どうして同じのを繰り返してしまうんだろう。発音が同じなら元の言葉も一緒であって欲しいと思うのだろうか。そういう点でもキャンキャンがCanCanでなくCanCamだというのはやっぱり不思議なんだよね。

ショートソング

2010年8月8日 日曜日

フリーなときは自然と本を手にとって読むことができる。フリーというのは本当にフリーで、何からも解放された時だ。まるでゴールを決めたサッカー選手のような躍動感で両手を突き上げ「フリーダム!!」と叫びたくなるような時のことだ。ツンドクになっている本に手を伸ばすことができるのはこういう時だ。

枡野浩一の「ショートソング」という小説を読んだ。「ショートソング=短歌」だと気がついたのは読み始めてからだった。俳人だとか歌人だとかそういういう人達はたった17文字や31文字の中だけでものすごいことを言ってしまう。その言っていることを説明するには17文字や31文字では当然無理なことだし、原稿用紙が何枚あってもやはり無理なことだと思う。おそらく日本語が持つすべての言葉を使って説明しようとしても言葉の網目に引っかからずに擦りぬけてしまうような感情などをなぜだか言い尽くす術を持っているのだろう。

そのショートソングの中で気になった歌の一つが

無理してる自分の無理も自分だと思う自分も無理する自分

だ。私はもともと短歌に限らずこういう言葉遊びのようなものが好きなのだけど、ちょうどこの中ではまさに自分がこれまでうまく説明できない言いつくせないでいたことを現してくれているように思う。これまで自分では表現できなかったことを代わりに表現してくれる人という存在を見つけたときに私はとても興奮するし安心したりする。心のなかで溜まっていったなにか未消化なままの残骸をすべて掃き清めてくれるような感覚が得られる。たぶん物の好みというのはそういう事なのではないかと思う。芸術的な作品でも何でも自分が好きだといえるものというのは技術的な未熟さゆえに表現できないものを代弁してくれているもののような気がする。

私が歌人や俳人の小説や随筆を好きなのはそういう感覚を得られやすいからかもしれない。「あー、それそれ、それずっと思っていたんだよね」と唸りたくなることを書いているのを見つけたらすっきりと体が軽くなる。枡野浩一の歌や文章に共感するのはたぶん、私自身と重複する部分を持っているからだろう。無意識のうちに共有する部分を持つ人を見つけたり、そういう人と話をするとスッキリするのはそのためだ。それならそう言うのもを定期的に見つけられればいつも体が軽くていいのにとおもうのだけど、そこまでの効力があるのだろうか。そんなこと考えていたらかえって悶々としそうだけど、たまにはそういうことを考えてみてもいい。