九谷光仙窯

2010年3月9日

九谷光仙窯
Creative Commons License photo credit: Yuya Tamai

愛情物語を見て、原田知世もいいけれど渡瀬恒彦もはもっといいと思った。こういうアイドル映画ではその相手となる俳優が大切だなのだろうな。それはさておき、映画の中で「あしながおじさん」の居場所を知りたい主人公が、プレゼントの花束の送り主であるあしながおじさんの住所を花屋から聞き出そうとするシーンがあった。その住所というのが渡瀬恒彦が働く九谷焼の窯元という設定だ。そこはどうやら実際に存在する九谷焼の窯元らしいということがわかったのでいってみることにした。

私が訪ねたのは九谷光仙窯というところだ。なかなかに広いところだった。予約をして行ったので見学もさせてもらえた。なかには九谷焼の歴史などの展示もあったし、いろいろと説明もしてもらえたので勉強になった。これまで上絵のことをなにも知らなかったので楽しかった。それにしてもあの原色の色鮮やかな九谷をあんなにたくさん見られたのはよかった。海外でも大人気という九谷の秘密が少しわかったような気がして嬉しかった。

絵付け体験コーナーがあったので、迷わず申込んだ。むずかしくてヘンテコになってしまった。青海波を書こうとしたのにグニャグニャになってしまい、まるで病気の金魚のウロコみたいなのだ。その湯のみもすでに完成して届いているので、そのうちにこのブログにアップしたいと思う。

目的のもう一つである映画の舞台をたずねるという目標も達せられた。原田知世がかばんを置き引きにあった路地も発見できたし、渡瀬恒彦がひいていたロクロの場所も確認できた。実際にその風景の中に自分が立ってみたり、撮影の当時の光景を想像したりしするのはなかなか楽しいものだ。また面白そうな映画を見つけてその場所を訪ねてみたい。

愛情物語

2010年2月26日

愛情物語という映画を見てしまった。わたしはずっと、こういう映画は見てはいけないと考えていた。角川春樹だとか赤川次郎だとか、そういうのは何のポリシーも持たない連中が見るものだと長いこと信じていた。だけどいつごろからかそういうのこそ見た方がいいんじゃないのかという疑問が増してきた。キーワードひとつで選んでしまう今は、マイブームということだろう。

角川映画と言うのがまず、引っかかっていた。角川映画って一体なんなんだって聞かれても、うまく答えられる人は少ないだろう。だけど、角川映画ってああいうのだなとたいてい思い浮かべることはできる。「ああいうの」が好きになれなかったのに、今は大好きなのだ。不思議だ。角川春樹ってカッコいいとさえ思う。それから赤川次郎の小説と言うのも昔は好きになれない気がしていた。赤川次郎の小説そのものというより、赤川次郎の小説を読んでいるという人達が好きじゃなかった。クラスにかならずいる赤川次郎が好きな女の子って、自分とは決して話の合わない人たちだと思っていた。今更に好きになるというのはなぜだろう。

それでこの愛情物語では例のごとく原田知世が出てくる。話の途中で脈絡なくミュージカルシーンが始まる。こういうのもおもしろい、と思うようになってしまった。設定の一つ一つが飽き飽きとするもので以前なら耐えられなかっただろう。そんなベタの波状攻撃に耐えられるようになったのは自分自身の成長のおかげだと考えることにしている。

教科書を読む

2010年2月24日

教科書をよむのは本当に楽しい。教科書をよむのというのは、教科書を通して著者と自分が勝負しているようなものだ。碁盤をはさんで一局の碁を打つように、こちらが一手打つと相手がそれに応えて一手打ってくれる。教科書をよむというのはその一手一手の繰り返しのようなものだ。

教科書に書いてあることが実は自分の理解を遥かに上回るものだったということがある。それが想像したこともないほどにとてつもなく広く大きなものだったということがある。そう気付かされて呆然とする。もう全く勝負にならないのだ。むこうから象の群れがやってきて逃げだす暇もなく一瞬で踏み潰されたような感じだ。ぺらぺらになった自分の亡き骸をなんとか膨らませてまたとぼとぼと歩き出そうとする。そうするとまた大きな象の群がだあっとやってきて今度も一瞬で踏み潰される。

教科書を読むのってかなり楽しい。もっといろいろな教科書を読んで勉強しなければいけない。

お棗、お茶杓の拝見を・・・

2010年2月14日

茶道の稽古で辛いところは、時間がたつとすぐに忘れてしまうことだ。家でもときどき稽古をしているけれど道具が無いのがよくないのか、ほとんど覚えられない。本を読んだり、付録のDVDをみたり、それでもなかなか覚えられない。ちょうどいま、NHKで「茶の湯 表千家」を放送中なのでこれを見て復習しようと思っている。

なかなか覚えられない点前の中でおもしろいのはやはり「拝見」だ。亭主と客とが会話をするのはおもしろいと思う。茶席と言うのはそもそもそういう場所だ。喫茶店ではないんだからウエイターが黙ってテーブルにコーヒーをおいて行ったり、無口なマスターとカウンターをはさんで一人コーヒーを飲むなんてことはない。実際の茶席ではそういうことはないのだけど、稽古はそうも行かない。教科書をなぞるのもままならないのに、それ以上のことなんてできない。形をまねるばかりで、亭主と客とは、正しくは亭主役と客役とは、赤の他人を演じているのだ。これだからぎこちないのだとおもう。そんな中で会話を交わす瞬間はやはり良いものだ。決められたセリフを暗誦するだけとわかっていても楽しいものだ。

そうは言ってもやはり、変なのだ。たしかに、茶碗の拝見をしてもなんにも分からないから、わかるようになりたいと美術館に足を運んだりして少しわかることができたような気がする。だけど、毎回のように拝見している棗と茶杓が全くわからない。違うけれど何が違うのか、違うからどうなんだ、と言うことがわからない。どこに目をつけたりどう見たらいいのか、さっぱりなのだ。頭の中は空っぽなのに「拝見をお願いします。」なんて言うのだからおかしな話だ。何もわからないと知りながら、棗の蓋をとって覗いてみたり、茶杓を裏返したりするのだ。なんて滑稽なんだ、これではイカン、と最近強く思う。空虚でない拝見を始めるべき時期が到来したに違いない。

川喜田半泥子のすべて

2010年2月7日

「川喜田半泥子のすべて」展のことを書かねばなるまい。間違いなく去年見た企画展では出色の出来だった。もう一回ぐらいは見ておきたいと思う。岐阜県現代陶芸美術館からはじまり現在も巡回中で東京、横浜、山口、さいごに三重に帰ってくるみたいだ。

何でもありでやりたい放題なものをいきなり見せつけられた。悪ノリかよというのもあった。遊びゴコロが最高に嬉しくて私はなんども繰り返し感動した。半泥子と言う人は絶対にもう楽しくてたまらなかったのだ。笑いをこらえながら作ってたかもしれない。銘の感覚がこれまた痛快でいい。とにかく半泥子がうらやましくて仕方がない。

自分の家に近所のお百姓を呼び出して、茶を点ててはのませていたらしい。その前で、あられを口にほおばって茶碗を片手でつかんで飲み干してみせたそうだ。何でもありなのか、そもそも何も無いというべきなのか、いやいやそういうことじゃないんだ、と妙に納得した展覧会だった。

美濃陶芸庄六賞茶陶展

2010年2月6日

このあいだ、岐阜高島屋にいったら美濃陶芸庄六賞茶陶展が回ってきていたので立ち寄った。時刻も遅く混雑していなかったので、ゆっくりとみられてよかった。それにしても有名作家の作品は高い。どうやって値段を付けているのかわからないけれど、そんなに高くなるものなのか。茶碗は特に高い。となりのぐい呑みにいくと十分の一ぐらいの値段だ。ぐい呑などの酒器をコレクションするという人の理由もそこにあるかもしれない。

美濃陶芸協会のページにのっているとおり、今回の庄六賞は耀彩天目の水差しだった。天目っていまいちわかんないなあ、とずっと思っていたんだけど、天目にもいろいろあってけっこうおもしろいと感じて気になっている。コラムのとおりで、岩田渓山の耀彩天目は闇夜の星のようだった。ところで〇〇天目っていうものには何種類ぐらいあるのだろう。

最近気になるのが黄瀬戸だ。このあいだ教室で作った一輪挿しに黄瀬戸をかけたらなかなかいい具合に濃淡が出てしまった。下手なだけでも、それもそれでよく出来のはうれしい。でもこういう所で見る黄瀬戸はそういうのとは全く違う。今回の庄六賞茶陶展にも安藤日出武の黄瀬戸の茶碗があった。いわゆる油揚手というのがこれなのか。ブツブツとザラザラがいい。そういえば写真で見た加藤唐九郎もブツブツザラザラしていた。これは黄瀬戸なのか。自分が黄瀬戸じゃないのか。

こういう展覧会はいろいろな人の作品をまとめてみられるのでおもしろいとおもう。いろいろありすぎて混乱して帰ってくることも多いけれど、いろいろな人の作品を比較してみるのは勉強になる。どからどこまで存在しうるのかとうことをちょっと知ることもできる。

肉食バーガー 草食バーガー

2010年2月3日

朝起きたら一人だけ取り残されていたという時には、パンを食べることが多い。最近は超熟をよくたべる。小林聡美の真似をして二つに割るのはDIYな気分を盛り上げてくれていい。だけど料理が全くできない僕は卵やベーコンを焼くのは諦める。冷蔵庫の5枚パックのハムととろけるチーズがあれば大丈夫だ。片っぱしからはさめばいい。それが無いときは夕べの残り物をはさめばいい。CMのようにパンに乗っけるだけだと床に落として朝から嫌な気分になる。シーチキンの缶詰丸ごとひとつ使ってしまうと朝から相当に贅沢な気分に浸れる。パンを食べながら新聞を読むとホームドラマの気分までも味わえる。ひとりとりのこされるのも実は楽しい。

正しいカレー

2010年1月30日

私は優等生だから「正しい」ということに安心する。正しいというだけで安心し、正しくないというだけで不安になる。なにをみてもそれが正しいかどうかと真っ先に考えてしまうのだ。それは正しいのだろうか。

カレーには四つある。「左がカレーで右がライス」、「左がライスで右がカレー」、「手前がカレーで奥がライス」そして、「手前がライスで奥がカレー」だ。見た目に正しいのは手前と奥に分かれるパターンだと思う。左右にカレーとライスが配置されるのはどうもバランスに欠けると思う。人間は左右のシンメトリーに安心を感じるものだ。だけど実際に食べる時となると話は別だ。左にライスで右にカレーを持ってきた方が食べやすいと思う。カレーライスは、カレーとライスの境界線で食べるものだ。そして日本人は箸をスプーンに持ち替えたところで、箸の使い方しかできないのだ。スプーンを手前や奥に押したりするのは苦手だ。だからたぶん、右にあるカレーを左のライスに持っていくのが正しいだろう。

ただ、レストランでカレーを注文するとカレーを手前に向けてを持ってくるウエイターが多い。美的に正しいからだ。だけど、私は思わずウエイターを目を遣る。視線がこちらをむいていないのを見計らって90度だけ右に回転させる。この90度の回転というのは正しいのだろうか。だけど多分、全国のレストラン、洋食屋、カレー専門店で行われているに違いない。私がカレーを90度回転させているとき、別の場所で誰かが90度回転させているのだ。カレーを食べようという瞬間、私は見知らぬ誰かとシンクロしている。カレーってなんと楽しい食べ物なのだろう。

西野カナさんからのメッセージ

2010年1月23日

Radio Daze
Creative Commons License photo credit: Ian Hayhurst

ときどき聞いているポッドキャストの番組があるのだけど、これにメッセージを寄せてくれる西野カナっていうのが何者なのか気になっている。なぜかネクラで、スネに傷のありそうな声なんだ。合格ドコモダケのプレゼント企画とコラボしているみたいなのだけど、受験生を応援しようっていう気持ちが全く感じられない。爆笑問題の方もこのニシノカナってのが何者かよくわかっていないみたいで両者のやりとりが面白い。ググッてみたけどわからない。ポッドキャストから、いまは名古屋の大学に通っていて、高校時代は一つ年上の彼氏がいて、夜食にカレーを食べていてたっていうことなどがわかった。

ポッドキャストはiPodよりもパソコン上で聞くことが多い。iTunesの履歴によると、聞いているのはもっぱらトーク番組のようだ。普段は人と話をすることが無いので、こうして人の声を聞くとちょっとだけ気分が落ち着くのだ。勉強になるからCNNなどを聞くなんて殊勝なことはできない。おなじことで、最近は帰りの車ではラジオ番組を聞くことがよくある。数人で盛り上がっている話に耳をそばだてるっていうのが私は好きみたいだ。

他にもまた聞いている番組などを紹介して息たいと思う。もしも面白い番組などがあったら教えて欲しい。そして西野カナについて知っていることがあれば教えて欲しい。

三食ボールペン

2010年1月22日

a kind of magic
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三度の飯よりボールペンが好き、略して、三食ボールペン! いつからか書類を読むときには右手に必ずボールペンを持つようになった。赤と青と緑の三色ボールペンだ。むかし、「三色ボールペン〇〇術」みたいなのに感化されて買ってしまったものだ。情けなくて使っていなかったけれど、いまさら持ち出して使っている。本当に情けなくなるくらいにプラスチックで、使い甲斐がない、楽しくない。こんなの使っても永遠にカツマーにはなれない。

それにしても、緑色の文字がかけるというところを生かさねばなるまい。緑色の単色ボールペンなんて、デカペンケースの女子中学生か、志茂田景樹ぐらい歯科持っていないだろう。緑色のボールペンって文房具屋のレジに持っていくのさえ恥ずかしい。無駄かもしれないと思いながら買った三色ボールペンに緑があるという程度だ。いやむしろ、三色ボールペンになんでよりによって緑が入っているんだ、おいおい黒・赤・青の三色じゃないのかよ、という悲しい瞬間に緑を見つけるぐらいのものだ。

そんな緑色でもあれば使ってみたくなるもの。赤や青はすぐになくなっていくから、同じ速度で消費しようと無理をして緑を使ってみたりもする。赤でも青でもないな、なんて迷ったときになぜだか緑を使う。どうでもいいところに緑を使う。時々後悔する。だけどまた、使わなくてもいいようなところで緑を使う。そうしているうちに緑色の使い道ができてくる。三色ボールペンの本に書かれていることもそんな程度だったかもしれない。たいしたことは書かれていなかったはずだ。

そんなことを考えながら、ボールペンの軸を分解して、緑色のの減り方に一喜一憂している。緑色の使い方を知っている人がいたらぜひ教えてください。ちなみに私は青色が真っ先になくなります。